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マフムード (オイラト) : ウィキペディア日本語版
マフムード (オイラト)
マフムード(? - 1416年)は、オイラト部の族長。漢字では馬哈木と書かれる。
== 概要 ==
マフムードの名前が正史に初めて出てくるのは1403年、即位したばかりの永楽帝が送った使者を迎えた時である。15世紀初頭のオイラトはマフムード、タイピン、バト・ボロトが率いる3つの勢力に分裂しており、その中で最も力を持っていたのがマフムードだと側は考えていた〔マフムードの死後、オイラトとの交渉を担当していた宦官・海童は永楽帝に対オイラト政策を進言した。今までオイラトが明の意に背く行為を行っていたのはマフムードに因るところが大きく、マフムードが没した今、残るタイピンとバト・ボロトが率いるオイラトは宣撫できるというのが海童の意見であった。(『明史』列伝第216、外国9、瓦剌)〕。1409年にそれぞれの勢力の指導者に王位が与えられ、マフムードは順寧王位を得た。

北元オルジェイ・テムルアルクタイと争い、1410年に彼らが永楽帝の親征を受けて没落すると、明に北元勢力の討伐を申し出た。1412年にオルジェイ・テムルを殺害、オルジェイ・テムルが所有していた玉璽の献上と引き換えにアルクタイの討伐、明の庇護下にあるクビライ家の王子トクトア・ブハの引き渡し、そして多額の褒賞を要求するが、明側は要求を容れなかった。マフムードは明の使者を拘留して国境地帯に侵入する敵対行為に出るが、これが永楽帝の怒りを招く。1413年の冬、マフムードは飲馬河を越えて明に侵入しようとするがアルクタイの襲撃を受け、報告を受け取った永楽帝は親征の詔を出した。1414年、マフムードはフラン・フシウン(忽蘭忽失温)で明軍を迎撃するも明の鉄騎兵に敗れ、10人以上の息子と数千の部衆を失う。トゥラ川まで追撃の手は迫るが逃げ切り、翌年に永楽帝に謝罪の意を表して拘置していた使者を返還した。
1416年にアルクタイの攻撃を受けて敗北、敗戦から間も無く死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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